2011年12月16日金曜日

南京大虐殺  南京事件

南京事件をテーマとした映画が出るそうで。
まぁ確かに日本軍が行ったのですが(正確には行っていない中国のホラ吹きだけど)、それの原因は無能且つ、軍人の風上にもおけない中国軍であるという事も放送してくれるんですよねっ!!


※南京攻略戦の経緯

当時、中国の首都は南京でして(但し万一に備え南京戦の前に重慶に首都移管している)、日本軍は南京攻略戦へ向け進軍していたわけです。
※戦争は基本的に首都陥落=敗戦に等しい。国家機能の低下。民衆、軍隊の士気低下。なによりそこまで切り込まれてる時点で戦況劣悪である為。大抵の戦争では首都陥落となると流石に降伏します。

それに対し中国軍は残る兵力を掻き集めて南京決戦の構えでした。
中国南京防衛軍の司令官唐生智は南京の全城門を閉鎖し、防衛体制を取ります。
この際、日本軍の進軍を遅らせる、或は撃破する為、郊外に配置された中国軍や上海方面より撤退してくる中国軍は取り残された事になり、あろうことか自国の一部である周辺の町や村に対し略奪、暴行、放火を繰り返す等、容赦なく襲い掛かります。

また、本来最高司令官となる蒋介石やその親族家族を初めとし、多くの官僚や富裕層等は南京を脱出し南京防衛は唐生智に一任します。

その後、日本軍は南京包囲を完了し、降伏勧告が実施されます。
この降伏勧告は、「オープン・シティ」と呼ばれる戦時国際法で、これを受理し非武装宣言する事で「無防備都市」として国際法により認められ、一切の戦闘をせずに都市を明け渡す代わりに捕虜の待遇保障と戦闘による一般市民への被害を無くす為の物です。(ドイツ軍侵攻時のパリ無血開城等)
当然、コレを受理したにも関わらず戦闘を行った場合国際的な批判が集中します。
※ちなみに勧告方法は呼びかけと、投降勧告文を作成し、航空機により南京城内へ大量に散布するという物。
 尚、この時、日本軍は南京城内、城外より外国の報道陣に揚げ足取るべく睨まれていた為、もの凄く慎重に事を進めていた。

定刻を過ぎても応答は無く、降伏勧告は拒否された為日本軍は攻撃を開始、中国軍は防壁からの迎撃戦に入ります。
しかし日本の攻撃は激しく中国軍の戦況は悪くなっていきます。
この最中、南京防衛軍最高司令官である唐生智は軍上層と自分達を守る為の兵力を連れ、密かに南京より脱出。敵前逃亡を行います
これにより南京城内へ取り残され、逃げ場を失った多くの中国軍兵士は大混乱となります。
そして民家より平服(一般市民の服。通常の服装)を強奪。軍服を脱ぎ捨て、それに着替え、潜伏します。この際、安全地帯へと逃げ込む者が多くいました。(南京より出られない貧困層等の住民が多数南京城内には居た為、戦災を避ける為、在住外国人が作り国際的に認められた非戦闘員用の安全地帯)
また、この時も最早ただの暴徒と化した中国軍は市民に対し略奪、暴行等を繰り返していました。

そして抵抗が止み、日本軍が南京入城を果たし、最初に見たものは山の様に積まれた大量の中国の軍服でした。
それから便衣兵や敗残兵からの抵抗を受けつつも掃討を完了し南京の占領を完了します。

※便衣兵。平服を着ている兵士の事。ゲリラとも呼ばれる
民間人の振りをして近づき、奇襲攻撃等を行う。当時中国軍は積極的にこれを採用し、日本軍を民間人と軍人との区別という点で大いに悩ませていた。
これら便衣兵はバーグ陸戦協定により『捕虜としての資格は無く、賊と同じであり殺しても良い。』とされている。何故なら民間人への被害が出る危険性が大きい為である。

この占領時の掃討戦が南京事件と呼ばれている物であり、中国は『無抵抗の敗残兵や市民を虐殺した!』と言っています。
しかし実際は中国の悪名高き便衣兵に対しての物であり(当然攻撃してくる)、敗残兵も捕虜にならならず戦死した者の多くは突撃させられるかトーチカ等の防御施設や民家に足を繋がれ攻撃させられていた者が殆どです。
また、中国側の主張。『被害者は30万人以上』という物は事実上不可能な数値です。
これを短期間で、且つ歩兵中心で達成するのはあまりに現実的ではありません。
それこそ原爆でも落とさない限りは達成しえない数字です。(東京大空襲の死傷者は約10万人)

そもそも、100万歩譲って中国の言う通りとしてもまったく証拠が無いんですよ
中国はそれだけの事をしたといってるのに証拠を提示も出来ない。だから認めろ!としか言えないんですね。
外国記者も沢山居た中、まったく証拠が無いのは明らかにおかしいわけ。
また、当時南京他都市に在住していた住民や在住外国人は悪事を働く中国軍が掃討され、軍規の厳しい日本軍による統治に喜んだそうです。

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